平成21年度 農林水産省 にっぽん食育推進事業

「大人の食育」学習会

地域食材と江戸の食文化

開催日 平成21年7月26日 PM1:00〜4:10
会場 家の光会館 コンベンションホール
第2部

パネルディスカッション
演 題 『エコタウン、江戸と食と農』

「食と農」の論客たちの熱き談論100分間!
パネリスト:大竹道茂・進士五十八・福田浩・本多京子
コーディネーター:中村靖彦

コーディネーター
中村靖彦

■「大人の食育」推進実行委員会委員長 ■東京農業大学客員教授 ■東北大学卒業後、NHKに入局。番組ディレクター、農林水産産業部担当部長を経て、解説委員。特集番組「どうする日本農業」、「コメ、迫られる選択」などを担当。平成13年に退職し現職にいたる。 ■NPO法人「良い食材を伝える会」代表理事など。 ■著書に「シカゴファイル」、「コメ開放」、「ニッポン食卓事情」、「コンビニ ファミレス 回転寿司」、「狂牛病 人類への警鐘」、「食の世界にいま何が起きているか」、「ウォータービジネス」、「食の安全とスローフード」、「牛丼 焼き鳥 アガリクス」など多数。

パネリスト
進士五十八氏

■東京農業大学教授 農学博士 ■京都市生まれ、鯖江、木場育ち ■東京農業大学卒業後、1987年、東京農業大学教授。農学部長、地域環境科学部長を経て1999年〜2005年まで学長 ■国立公園協会田村賞、日本造園学会賞、Golden Fortune表彰、土木学会景観デザイン賞、日本農学賞、讀賣農学賞、日本公園緑地協会北村賞、紫綬褒章など受賞 ■著書に「『農』の時代・スローなまちづくり」、「アメニティーデザイン・ほんとうの環境づくり」、「都市になぜ農業が必要か」、「都市、緑と農・『農』が担う地球の将来」、「ランドスケープを創る人たち」、「緑のまちづくり学」、「環境市民とまちづくり」(全三巻)など多数。

本多京子氏

■医学博士・管理栄養士 ■実践女子大学家政学部食物学科卒業後、早稲田大学教育学部体育生理学教室研究員を経て、東京医科大学で医学博士号取得 ■テレビ、雑誌で健康と栄養に関するアドバイスやレシピを多数作成。プロスポーツ選手の栄養指導、食品・化粧メーカーなどのアドバイザー、NPO日本食育協会や食育学会の理事。短大では小児栄養学を担当、日本紅茶協会ティーインストラクター会長、アロマテラピープロフェッショナルなどをつとめる ■栄養や食に関する著書は50冊を越え、近著に「図解でわかる!からだにいい食事と栄養の大辞典」、「黒ダイエット」、「免疫アップの料理の力」などがある

福田浩氏

■江戸料理「なべ家」主人 ■東京生まれ ■早稲田大学文学部史学科卒業 ■三到(千代田区永田町)にて就業後、家業を継ぐ。長谷川青峰(「日本料理大鑑」編者)と知り合い、料理古書の世界へ誘われる。現在「なべ家」主人、料理書原典研究会同人、食生活史懇話会同人、蕎話会主宰、戸板女子短期大学講師 ■著書に「日本庶民生活史料集成」、「江戸料理百選」「変わりご飯」「豆腐百珍」など。

大竹道茂氏

■東京都農林水産振興財団、江戸東京・伝統野菜研究会代表 ■JA東京中央会で平成元年より江戸東京野菜の復活に取組み、「江戸東京ゆかりの野菜と花」など、江戸東京シリーズを編纂。平成9年には江戸東京農業の説明版50基を都内に設置企画。日本橋の料理店をはじめとする料理関係者、市場、行政、研究機関、生産者、消費者などのネットワークを構築。「食と農の応援団」団員。フードボイス評議員。英国国立ウェールズ大学院環境プログラム講師。平成20年4月より東京都農林水産振興財団・食育アドバイザー






亀戸大根


伝統小松菜


金町小蕪


馬込三寸人参


馬込半白


品川蕪

写真提供:
江戸東京・伝統野菜研究会
中村: 江戸時代は食料自給率は100%で、伝統的な食材を生かした食生活を営み、循環型の暮らしが主流を占める社会でした。私達は、その江戸に学ぶところが多いというふうに思います。パネリストの皆さんは、研究分野は違いますがお話の中から今の私たちの暮らしに役立つ何かヒントを話していただけると思います。暑い中満員のお客さんにお越しいただき、この企画に多くの方々がご関心を持って頂いたんだろうと思います。
 それではパネラーお一人お一人に自己紹介を兼ねて、2分間の短い時間で江戸時代という言葉にどんな事を連想されますか。江戸は皆さんにとって一体何でしょうか。これが最初のご質問でございます。
進士: 東京下町の木場で育ったんですね。実は京都で生まれで、小学校の半分は疎開をしたので田舎の田園で育ちました。専門は環境デザインです。江戸はまち造りとして私の専門対象で、特に江戸の庭園が対象です。江戸のまち造りをみると、大体、六割が武家地でほとんど大庭園。早稲田のそばにあった富山荘が十三万坪。浜離宮が十万坪くらい。まちの二割はお寺や神社で、残り一割が町人、後の一割が畑だったでしょうか。とても、江戸は緑豊かな所だったといえます。今日は、埼玉県の三富地区の話もさせていただきますが、美しい東京をどうやって作るか、それが私がやってきたテーマです。それの基本はエコでなけりゃいけないんですね。
中村: それでは本多京子さん、お願いいたします。
本多: 皆さんこんにちは。私の父は江戸小紋の職人でございまして、親戚中が江戸小紋の染物工場をしていました。着物をお誂えのお客様に作って差し上げる職業でしたので、私も六歳の六月六日から着物を着せられ、着物を着ているのが本来の姿だったんです。今日、35年ぶりに、私の25歳の時に父が描いてくれた絽の着物を出したんですが、25歳の時の着物をこの年齢で着るのもちょっとずうずうしいかなとも思ったんですけれども、良い記念なので着物を皆さんに見ていただければな、と思って着てまいりました。
 日本は世界一の長寿になりました。今の食生活にはそれなりの意味がございますが、私たちが江戸の食を見直した時に、ちょっとこういう事をプラスした方がいいんじゃないかなと思われることがありますので、いくつかご紹介出来ればと思っております。
中村: 江戸料理「なべ家」を経営してらっしゃいます福田さんです。
福田: 母が、料理人とやくざには気をつけなきゃいけないよって言ってました。僕は料理人の方でございます。後ほど、食べ物の話をさせていただきたいと思います。
中村: お隣の、大竹さん。
大竹: 私と江戸とは、東京の農業の原点だと思っております。80年代に都市に農地はいらないとする国家政策がありまして、宅地並み課税というのですが、それがきっかけになり、東京農業に関した資料を集めましたら江戸の農業に突き当たりました。
農業は交配種、F1という品種が経済的理由からこの種子を使うようになり、江戸時代から続く伝統的な固定種が姿を消しつつあります。今残さないと一生無くなってしまうということで、平成元年からJA東京グループでも伝統野菜、江戸東京野菜の保存と復活に取り組んできました。20年くらい、江戸伝統野菜をやってきています。
中村: これからお話し合いをして行きますが、まず、最初は「江戸の食」です。これは一体どういうものだったんだろうか。福田さんに江戸の食卓の姿を説明していただきます。その次に、本多さんに「江戸の食と健康」はどういう関係があったのか、関連があったのかという事をお話しいただくことにいたします。

江戸前料理「なべ家」の看板を掲げるご主人の福田浩さんが、江戸料理との出会いを語り、江戸料理こそ、大いなる田舎料理とその真髄にふれる。
福田: 「京、大阪は江戸の引き出し」という俳諧と川柳の間のような句があるんですけれども、これで江戸の食とは何かがお分りになると思います。手前どもは、一応「江戸前料理」の看板を出してますから、大阪、京都が何だ、白味噌、昆布が何だっていう風に対抗意識があったわけです。ところが、お料理の本、特に古い本を読んでいきますと、全くこの句の意味通りなんですね。現代は日本中が京料理と言っても過言ではないでしょうか。ちょっと、残念だなぁという気持が無くはないんですが、まぁ、これは大きな時代の流れでしてね、良し悪しでなくそういう風になって来たんだということであります。
 古いものに手を出し始めたのが30年か40年位前なんです。大学の先生を中心に古い料理本を読んで勉強しようという会がありまして、言ってみれば読書会ですね。僕が、なぜそういう所は行ったかと言いますと、うちのメニューを何とかしなきゃなぁ、こういったお料理を入れたらいいかなという思いからです。それで一番後ろの方でコックリコックリしながら聞いていたんです。やがて読んでるだけだとつまらない、何か作って食べようじゃないかということになりまして、その時、料理に関わる者は女子栄養大学の先生と2〜3の料理人がいましたが、一番若造の私に「おい、お前やれ」となって、とにかく教えられながら始めたんです。
料理を作るのが現代の人、食べるのも現代の人ですからね、古い料理を再現する事にどんな意味があるのかという先生もいらししゃいました。江戸前という言葉は、もともと鰻からきているんだそうですが、深川の蛤とか、業平の蜆とか、江戸湾の鯛であるとか平目であるとか、そういう物を獲って来て、その素材が江戸の時代の持ち味を持ったままでいるのか。それは理屈といえば理屈なんですが、そう言われると段々意気が沈んできたりしましたんですが、一度、料理を食い出すと勉強はたいしたことじゃなくて食べる方に楽しみが行きますから、先生方もワイワイガヤガヤ言いながら色々やってました。

■『豆腐百珍』をテキストにする
その時、何を題材に再現しようかとなりまして、手っ取り早いので豆腐をやりましょうということになり、テキストは「豆腐百珍」。江戸中期頃の料理本で、まぁ、豆腐なら一丁でも百円ですし、色んな食材とも混じり合うのでこれで始めたんですね。当時の料理本には材料の分量表示がないです。火加減、塩加減、醤油加減の説明がない。これは難儀です。全体から言えば、作り方のアドバイスはほとんど無いと言っていいくらい。それでも、いろいろ読み返していきますと、何となく解ってくる。疑問を呈しながらやる事が、いかに大事かを学びましたね。
「豆腐百珍」の面白い所は百の料理法です。それに前篇に百品、後編に百品。後に付録とか予録がありまして、全部合わせると三百近いお料理が紹介されているんですね。それと最も意味のある所は、ちょうど天明時代ですが、お醤油が猛烈に普及し始めた頃なんですね。それまでの調味といいますと塩とか酢とか味噌です。特に味噌が調味の中心です。永山先生の講演で、ソバのしるとかつゆとか言うんですが、本当はタレだよとおっしゃってましたが、正に本当は味噌ダレなんですね。長い間味噌を中心にした調味でやってきて、長年奈良時代からずっと来ている豆腐が醤油とぶつかった時に、お豆腐の料理が急にウワーっと増えたんだろうと思います。これは日本中にお寺がある事とずいぶん関係がありまして、精進料理ですから中心は奈良以降ずっと豆腐になっています。
今まで味噌だったものが醤油を使い始めたら檀家の人たちも喜びますよね。あそこのお寺さんのものは美味しい。それを家に持ち帰ってお料理が始まる。そうすると、豆腐のお料理が全国に広まるわけです。三百品くらいのお料理があって、「豆腐百珍」が出来る天明の何十年か前には、すでに豆腐のお料理が六十品か七十品くらい出来あがってるんです。「豆腐百珍」は、これが集大成したという意味ですごく価値のある本だろうと思います。

■食いてみ申し候
お料理の要点を記した言葉に「調味好み次第」があります。実は、手前どもでお出しする玲瓏豆腐ですが、玲瓏とは透き通るという意味で、寒天を溶かした中に豆腐を入れて炊き冷まして使います。要するに寒天をどろどろにしたその中に、豆腐を放り込んでそのまま置いとけば固まるという料理です。作り方の後に「調味好み次第」とあるんです。要は、味付け、あるいは何をつけて食べるかはご自分のご判断で、というわけ。
「調味好み次第」というのは今でもその通りで、これを基本的に持ってないと、いくら立派なクッキングブックに習っても何のお料理も出来ないという事になります。とにかく試作、試食、試食、試作の繰り返ししかないんですね。その点で豆腐は非常に有効な素材であります。お金がなければ豆腐に醤油をかけるだけでもすみますし、お肉を買ってくれば肉豆腐も出来ます。
江戸時代の初期に『料理物語』というテレビドラマのような本があるんですが、ここにお料理の要諦が一つあるんです。「うどんの茹で様、食いてみ申し候」というのですが、今風に言えば「うどんやそうめん、どうやって茹でたらいいのかしら」「そりゃ食えばわかるじゃないか」という事なんですね。これはいまだ真理だと思います。何分茹でればよろしいとか、どういう風に「おつゆ」を作ればよろしいとかではなくて、まず自分の舌で確かめるという事です。
私ら料理人は物を持って来て、作ってお出しして、お客様が「うまい」と言うのを期待しているだけの話でして、事の良し悪しはあんまり考えてないんです。ですから、ちょっと珍しいもの、ちょっと時代がかった物でやっていかれれば、特に、江戸前という事にこだわるというほどでもないんですが、気持ちが行くとなると、少しは肌合いの違ったというか、昔風の物を何とか現代の舌に合わせる事が出来たらいいなぁという思いでやってきたんです。
中村: 福田さんありがとうございました。続いて本多京子さんから「江戸の食と健康」のお話を聞いて、パネラーの方に少しご感想などを伺いたいと思います。

医学博士と管理栄養士の肩書きを持ち、食と健康分野で異才を発揮している本多京子さんが、冒頭に観相家・水野南北から、その核心を伝授する。
『食定まれば気自ら静かなり、気静かなれば心みずからおさまる。心おさまりて動かざれば災いを生ずことなし。食は命を養うもとにして、生涯の吉凶ことごとく食より起こる。  ただ恐るべきは食なり慎むべきは食なり、ああ食なり』

本多: 大学で栄養学を専攻しましたけれども、卒業する頃、水野南北という人物に大変興味を持ちまして…、この方は江戸中期の観相家ですが、体つきとか顔つきを観て性格や運命を判断する、つまり観相学なんですね。南北が運命判断の基礎に置いたのが食べ物です。実は以前、この人物は極道だったんですが、ある時、麦と大豆を中心にした食事で人生を変えて、観相家として大家になるのですが、冒頭の言葉に私は非常に感銘を受けました。これが私の食の世界を切り開いていくきっかけになりました。
今、食育という言葉が盛んに言われていますけれども、水野南北のお弟子さんの石塚左玄という方が、明治31年に著した本の中に「今日学童を持つ者は体育も知育も才育もすべて食育にあると認識すべし」の言葉を残しています。これが食育という言葉で世に問いかけられた初めでないかと思います。
中国には医食同源という考え方がありますけれども、同じように、日本でも食べ物は薬の一つで、お正月に七草粥を食べるのもおせち料理で疲れた胃袋にフレッシュな野菜を摂ってビタミン補給をして胃腸を休めるという薬効だったわけです。江戸時代には牛とか猪とか家畜のお肉を食べるようになりましたが、お肉を食べる事が「薬食い」といわれていたようです。
江戸時代になると、食生活はだんだん豊かになりましたね。そうなると、人間は長生きをしたいと思うようで、養生訓が出てきます。貝原益軒は有名ですね。ここに「食い合わせ」のことがよく出てきますが、何と何を食べるとお腹に毒だという、例えば、鰻と梅干といった話ですね。実はあるテレビ番組で鰻屋さんに行って梅干を食べながら人体実験をしたことありますが、梅干で口の中がさっぱりして鰻を二人前食べちゃいました。要は食べ過ぎを戒める言葉でなかったかという事です。冷蔵庫のない時代ですから、貝類は腐りやすいとか、食べ合わせには意味があったんじゃないかという気がしています。なによりも、こういうふうに関心があったというのは素晴らしいなと思います。
 また、「百珍物」がたくさん出ています。大根とか柚子とか鯛とか甘藷とか蒟蒻といった百珍物があります。「たまご百珍」の著書に「逆さ卵」が出てくるんですが、卵の尖った方に針で穴を開けて糠味噌に三日漬けて茹でると、黄身と白身が逆になっていると書いてあるんです。やってみましたが、何日漬けようと糠味噌の塩分を変えようと、絶対に出来ませんでした。百揃えるのが大変だったので、楽しい空想の世界でいくつかは作り話を文章にしたのかなって思います。そういう物が流行したのも食文化、料理の文化が大成した時代であったのかなと思います。
平和が続いた時代ですから幕の内弁当とか重箱の文化が生まれていますね。また、江戸っ子は「初物食い」が好きだった。「初物食いで寿命が七十五日延びる」のように、新しい作物の霊力を体の中に取り込む信仰的な要素があるんですね。

■江戸の食事バランスガイド
食育基本法が制定されまして、栄養のバランスを良くして元気で長生きしていただくために大切ですよという、コマの形をした食事バランスガイドが作られました。何をどのくらい食べたら良いかご存じない人のために、お手元の資料の中にも40代、50代のための食事バランスガイドのパンフレットが入っています。そこに大きなコマの絵が出ていまが、コマの真ん中に芯が通っておりまして、芯は水やお茶を表わしています。人間の体重の中で占める割合の一番多いのは水分なので、芯が水になっています。コマの一番上が主食のグループ。二段目がお野菜料理とかキノコとかお芋とか海藻の副菜。三段目が江戸時代ですと「豆腐百珍」のような豆腐料理を代表とする大豆とか江戸前のお魚と卵。一番下の段に果物がありまして、左側に牛乳、乳製品が入っています。当時、仏教の影響で牛乳とかは摂りませんでしたけれども、栄養のバランスは面積の多い所がしっかり摂る事を表わしています。
永山先生のお話ですと、江戸の人は一石、150kgのお米を食べたそうです。玄米でなく白米にしていただいて、白いご飯には食物繊維が少ないはずですけれど、一回炊いたお米がだんだん冷えていきますと、レジスタントスターチという成分が出来まして、日本語でデンプン低下抵抗性物質と言われる成分ですけれど、白いご飯でも食物繊維をいっぱい食べたのと同じ効用があるといわれているんです。それをしっかり食べ、副菜に当たる野菜料理をしっかり食べ、そして適度のタンパク質をバランスよく摂っていたというのが江戸の人の特徴になんじゃないかなというふうに思っています。
それでは江戸時代の人は長生きかというと短命でした。現代みたいに長生きしなかったんですね。江戸患いという病気が流行っていまして、地方の人は、普段、ご飯を食べ、雑穀食べ、大豆を食べる食生活をしてたのが、江戸に奉公に行って白いお米を食べるようになり、使用人はおかずが豊かではなかったのでバランスが悪くなる。それでビタミンB1不足による脚気の病気になるんです。こうした背景があります。ビタミンB1は頭脳強化ビタミンなので「ビー足りんは脳足りん」と覚えておいていただくといいんですけど、ぼーっとしてくる。

■糠漬はビタミン材
江戸では色々なお野菜が作られていましたが、保存食作りの一つに糠漬があります。糠漬にすると、キュウリを生と糠漬にするのでは8倍ビタミンB1が増える。ナスは20倍、大根5倍くらいに増えます。生の大根よりも沢庵の方に時間を経てる漬け物なのにビタミンB1を多く含むという特徴があります。また、香の物という言葉があるように、口の中の食べ物のカスを取る効用も沢庵にはあったということです。糠漬を作ることが江戸患いを解消したり予防したりする一つの要素になっていたのかなと思います。
それから糧飯ですね。ご飯の量が少なくていろんな具を混ぜた料理ですが、飢饉の時もありましたし、庶民はそんなに豊かな食生活が出来るわけではなかったですから、糧飯というご飯を食べています。季節によって、春は青菜を乾して保存したもの、冬作った切干大根、夏は旬のナス、秋は大根や里芋など旬のお野菜とか保存した物を上手に使って、栄養のバランスも取り、お米が食べ足りない事に対してしっかり食べるためにバランスよく食生活が回転していたんじゃないかなという気がします。
 先ほど永山先生のお話では、江戸の人は元気でたくさん歩いていたということですが、バランスガイドはコマですから回転しないと倒れますよね、つまり、運動しなさいという事です。江戸の人はバランスガイドに即した食生活を送っていたんじゃないかなというふうに考えられます。
中村: 福田浩さんと本多京子さんのお話に、ご感想とかありますか。
進士: ちょっと質問したいのは江戸料理、つまり江戸の食を一言で明確に教えていただけると勉強になると思うんです。福田さんいかがでしょうか。
福田: 出汁が大事と言われます。京、大阪は昆布が主体ですね。東京は鰹節です。近ごろ家庭向きでは昆布もカツブシも一緒にお使いになると思いますが、料理屋では、ちょっと頑固な所では鰹節一本槍ですね。鰹節の出汁は、これは極端な話ですが朝引いて夕方まで置いてもあんまり濁らないんです。コブと鰹節が一緒ですとお味は良いんですが、どうしても濁りが出てくるという所があります。それで江戸の人は、昆布を使えなかったせいもあると思います。
調味料で言えば醤油、味醂、砂糖をそれこそ縦横無尽に使うのが江戸前の料理です。ですから、極端に言えば甘っ辛い。田舎のお料理です。今でも巨大な田舎料理ですね。食べ物だけじゃなくて、文化全般全てが京、大阪から来ているわけですので、これを押し返すなんてことはなかなか出来ないんですね。
お料理がずうっと命を持ち続けるのは長くても60年から70年。一世代ちょっと経てば変わるわけです。変わらないのが豆腐ですね。それから刺身とかナマ酢のような魚を食べる風習。これだけは未来も変わらないだろうという事であります。そんな事でありますので江戸前と関西の違いはあくまでも調味料、出汁の違いが一番というふうに思ってます。
中村: なるほど、分りました。
今、地域食材に関心が集まっていますが、江戸の伝統野菜がどんなものがあったのか、今どんなものが継承されているのか、専門家の大竹さんに解説をしていただきます。

江戸・東京伝統野菜研究会の代表で、元JA東京中央会職員として東京農業を踏破した大竹道茂さんが、江戸伝統野菜の復活と再生を秘めて現状を報告する──。
大竹: 伝統野菜は全国各地にありまして、各県に10から20の品種があると思います。例えば、能登の野菜6品目、肥後の野菜15品目、浪速の伝統野菜にはよく知られた勝間南瓜(こつまなんきん)とか金時ニンジンほか18品目。加賀野菜は金沢市内で栽培されるものに限って15品目を認証委員会で指定し、加賀太キュウリは有名です。
 伝統野菜の定義としては自家採種が出来る品種、いわゆる固定種ですけれども、それが消費地の近くで栽培され消費地の食文化を育ててきたもので、ある意味エコ野菜でございますし、消費地と強く結びついた野菜ということになります。
 江戸の近在近郷で栽培をされていた江戸野菜には、品川カブとネギ、目黒の筍、内藤南瓜と唐辛子、鳴子瓜、練馬大根、雑司ヶ谷茄子、早稲田の茗荷、駒込の茄子、滝野川人参と牛蒡、谷中生姜、三河島菜、寺島の茄子、亀戸大根、小松菜、そして砂村の葱などがあります。若干時代的に少しずつづれはあるかと思いますけれども、人口100万を擁する江戸は、これを見る限り、まさに田園都市であった事が理解いただけるかと思います。
 伝統野菜というのは非常に個性的な野菜でして、吉宗が名づけた小松菜を例にご紹介させていただきますと、昔の品種は伝統小松菜と言ってますけれども10月から4月頃までの季節限定の野菜です。病気に弱くて周年栽培は不可能です。サイズは大きいの小さいのがあったり不揃いで、収穫時に結束しずらく、日持ちが悪いです。最近の小松菜は交配種といわれ、これらの欠点を補うよう品種改良されています。交配種によって、収穫は3割アップしたと言われています。交配種は種屋さんの企業秘密ですから、新種を作るために何を掛け合わせてにするのかは公表されておりませんが、現在は昔の小松菜とは形も味も違った物を食べてるという事でございます。
 
 ■江戸野菜がまち起しをする
東京のあちこちでは、伝統野菜を通した町興しが起こってきております。例えば、亀戸大根が亀戸の小学校で栽培されて、年に一度、亀戸の香取神社で3月の第二日曜日に福明け祭に1000本が配られています。こうして復活した文化が定着しています。
 また、小金井市には江戸東京建物園というのがあるんですが、そこで「住と食文化のフェア」が2007年に始まり、小金井の農家が伝統小松菜、大蔵大根、亀戸大根、金町小蕪、しんとり菜の5品目を栽培し、市内のお料理屋さんがそれを使ったメニュー化をする事をやっています。築地の老舗料亭からも来ていただいて、どうしたら江戸野菜を美味しく食べられるかという飲食店の料理講習会がされています。最近、扱っているお店には「江戸東京野菜あります」というタペストリーが掛かっています。ご存知のように小金井市は江戸の頃から桜の名所でしたから、今年の三月「春うらら、お花見弁当フェア」が行われ、市民向けの料理教室も開催され、江戸野菜の地域起こしが積極的に行われています。
 最近、浅草に近い東向島にある第一寺島小学校では、食育の授業として寺島茄子の復活が始まりました。小ぶりな茄子でございます。古い種類で茄子の臭いがしっかりあって、これが日本料理の板前さん、フレンチのシェフ、居酒屋の親父さんが注目をしています。今日では、新たな料理にも応えてくれる食材になっているわけです。
 伝統野菜は郷土の食文化を育くんできたわけですけれども、伝統野菜の多くは年間を通して栽培することが難しい野菜です。季節限定ですから、忘れかけていた旬を教えてくれる野菜だという事です。ですから貴重な遺伝資源を絶やさずに、次の世代にも伝えていきたいなと、そんな事で取り組んでいます。
中村: 大竹さんから、江戸が田園都市であったというコメントがありました。進士さん、環境面からのお話をお願いしたいと思います。

日本の原風景の価値に着目し、各地で景観デザインのアドバイスの行脚を続ける進士五十八さんが、快適に人間の暮らす環境に問われているものを"ガツン"と提示する。
進士: 大竹さん、今の江戸絵図をスクリーンに出せます? 江戸はすばらしい田園ですね。さて、皆さんは食に関心がおありだろうと思いますけど、食の元は農業です。そこで暮らすのが環境のあり方だと私は思っています。食と農と環境はセットにしなきゃいけないといつも思っています。もう一つに衣食住です。食だけじゃなくて住む事、これも環境です。もちろん着る物もそうで、それらがセットだと思うんですね。
数日前、愛媛大学に行きいわゆる植物工場を見学しました。完全なオートメーションでトマトを作るわけです。今の伝統野菜と非常にギャップが大きい。コストダウンをはかって、大量の生産をしなくてはならない。つまり、食料を自給するためにはそういう事も必要だという事ですね。
地産地消と今は言うけれど、江戸時代はそんなの当たり前ですよ。地産地消じゃないのはあり得ない。遠くから運べないから生鮮野菜を直近で作るわけでしょ。江戸の9尺2間の小さな長屋だって、ちゃんとした菜園が在りましたよ。あ、ちゃんとはしてないけど、近くの空き地みたいなところで作っていたわけです。だから毎日、みそ汁に入れるようなネギは自分で作る。まちからもうちょっと離れると産地の畑がある。100万人のうんちがそこに戻るわけですから、生鮮野菜は地域内部でやらなくてはいけないです。ドジョウやウナギもそう。水産物もそう。浅草海苔もそうですよね。
 今、江戸川の景観計画をやっているのでこの辺をよく歩きます。ここには水路がいっぱいあって、水路には水運上と農業用水があるんです。江戸はそういうように水循環と緑の循環が全部出来ていたんです。この江戸絵図では単純にフラットに見えるけど、上野から芝、品川はずっと山です。山があると、必ず下に湧水が出る。その水が水源になって川が流れて、そこに色んな物が出来る。だから地形が変化すると作物も全部違う。土の柔らかい練馬では根菜類のような大根、砂村は海で砂浜ですから葱。場所に応じて色んなものが出来ているわけです。これが多様性という事だと思うんですね。
だから、昔の江戸野菜とか伝統野菜とかは、単に付加価値の高い野菜というだけでなくて、なんでそうなっているかというと、自然の地形が非常に複雑で変化に富んでいて、それぞれの場所から良い物を生み出しているということなんです。
米屋さんからよく聞く話ですけれど、コシヒカリは美味しいというわけ。江戸に米屋が多かったのは、ローカルな新潟とか東北とか関西から来た米が全部この隅田川沿いの蔵前に集まるわけでしょ。それをブレンドして、単価の安い米を集めていかに美味しい米にブレンドして売るかという事です。今の品種改良は、全部一種類で、一番美味しくて、長持ちして、生産性の高いものを作ろうとするもんだから、それを混ぜるというか、コーディネートするブレンドする技術はどんどん必要なくなっちゃった。袋にコシヒカリって書いて売るだけになったからね。
何をいいたいのかと言えば、江戸というのは、喩えて言えば京都の庭園は庭石一個が素晴らしく珪石というか盆石で売れるが、江戸はろくな物がなく、多摩川の石とか、富士の墨石といった溶岩とかで、そういうダメな素材を集めて一つの風景を作ってきたということですよ。現代は今までの素材を活かす技術が、本当は必要なんです。日本の料理は素材と活きの良さでやったと言いますが、いろんな物を組み合わせる、あるいは環境との関係で考える事が、今、私はそれがとても大事だと思ってます。

 ■ご先祖さんも一緒の暮らし方
今回の企画では「三富新田」の見学ツアーが計画されているそうですから、そのことについて話をします。埼玉県に三富新田という所があります。ここは六義園を作った柳沢吉保の領地でした。つまり、柳沢吉保の農村計画の地でした。雑木林があり、畑があり、いくつにも分かれた畑の真ん中に通路があって、茶の樹が境界の垣根になっている。雑木林が強い風の防風林を作って農地を保護していますが、風がすごいから隣との境目が移動しちゃうんで境目の境界線に狭山茶の樹を植えたわけです。雑木林はいつも下刈をして綺麗にして、笹なんか出ないようにして、落葉が落ちると、橡や楢や梓の落葉を農家の堆肥にします。これは畑に入れて戻し、川越芋が取れるというわけです。
 一軒一軒の農地は縦長に短冊風になっています。横が40〜50mありますが、縦はその10倍くらいあります。面積は5haです。畑に隣接して農家があって、屋敷林で囲まれている。この形態がずーっと連続して一軒一軒の農家が並んでいます。上空から俯瞰すると、屋敷林の所と雑木林の所と農地の所が、はっきりと別れて見えます。これが上富、中冨、下富の三つの地区に分かれ、ニュータウンというかニューヴィレッジが造られたんですね。柳沢吉保の昔です。農業のシステムが循環だという事は今おわかり頂いたと思います。
私が大事だな、素晴らしいなと思うのは、農業というのは生産する環境が大事で、風が強いと農作物は成長しませんから防風林を組み入れたり、ここは家畜を飼ってませんから有機物の肥料を植物から取る、落葉ですね。さらに雑木は炭や薪に利用する。それ以外に畑の間に各家の家墓があることです。ご先祖さんがずっと家に居られるんです。
ここにお見せした写真の風景は北関東の農家です。農家の周りは白樫の高垣で囲う防風林で家の屋根を守るんです。こちらは欅を植えていますが、夏暑いと欅は非常に涼しい環境を作ってくれますし、冬は強い北風を防いでくれます。エアーコンディショニングを自然に作っているわけです。竹林とか杉ですが、乾燥した杉の枯葉が薪になりますし、竹は棚などを組んだりする時の農業資材に使えます。生ゴミを埋めれば、それがタケノコに変わる。欅は100年経つと家の建て替えの時に使われます。
生活環境を安定させ、しかも一軒一軒の農家は周りを屋敷林で包まれていると、ここは私の家ですという事ですね。先祖伝来続く私の家。つまりそういうテリトリー、あるいは目に見える家というものが見える。私は、これは人間にとって非常に大事だと思うんですね。精神的な座標軸になる。墓までちゃんと設けている。実は農家というのは、今は機械化され、ただ経済とか所得が低いからつまらないとか言い方をしますが、実は、本当にすごい日本の文化の象徴的な空間だったと思います。
中村: 大竹さん、何か今のお話にコメントありますか?
大竹: 東京の村山貯水池の北側、昔から川越芋の産地になっている所にこんなに広い循環型の農地、農家が残っているというのは、私自身もびっくりしました。10月に皆さんをご案内して行きます。

『私達の理想的な生活形態を創るために、私達は昔の生活の中から上手に選び、そして取り入れることが重要である』
中村: パネリストの皆さんのこれまでのお話「江戸の食と食の中の地域食材と栄養のバランス、さらに暮らしの循環」から、江戸の姿には大変参考になる事が分りました。もう少し、江戸の暮らしと食文化から学ぶ話をすすめたいと思います。
 福田さん、食育の話でいうと食のマナーってどうですかね、特に子供のしつけとか。
福田: 平均寿命が高いわけではないし、子供の死亡率が非常に高かった事で、逆に、大事にされていたんじゃありませんか。七歳までは神の内だなんていう扱いとか、七五三という節目節目を生き抜く子供たちを大切にしたという伝統があるわけです。今の子供達の有様を見ると、とても昔の素直な子供たちが少ないように見えるんですが、まぁ実際にはどうでしょうか。親御さんの躾とか、近所のおじさんが怒鳴りつける、ま、これも躾でしょうが、そういうものが薄くなっているんでしょうね。僕、何年か前からお風呂屋巡りをしているんですが、だいたい百ぐらいの数になるんですけど、子供さんは少ないんですね、お風呂屋さんに。子供の躾って、銭湯でなされていたような所があります。「そんなにうめちゃいかん」とか「バチャバチャはしゃぐな」とか。それから、蕎麦屋さんで子供さんに対する同伴者が、極端に言えば箸の持ち方とか、猪口の持ち方とか昔ほどやかましくないんですね。子供のやりたいようにやらせている。僕はそうじゃなくて、特に銭湯、蕎麦屋、誰でも行けるような所こそ食べるマナーを学ぶべき場所なんだろうと思いますので、周りのおじさんおばさんが突っついてもいいから正しいやり方をして欲しいなと思います。
中村: 進士さんは、何かありますか?
進士: 私は東京の下町でしょ、兄貴が子供の頃からよく連れて行ってくれた寄席とか演芸場で、落語の世界に出てくる話がほとんど社会の教科書だったですね。どういう時は怒られるとか、どういう時にまずいって事がなんとなく気づいていくわけですね。寄席だけでなく、あらゆる場所が社会の教科書だったように思うんです。
それと今日の講演で永山さんが最後に、「東京を江戸に変えろ」って話をされました。江戸のライフスタイルって本当に素晴らしいです。ただ敢えて言えば、江戸が全て良かったのかという事はちょっと考えなきゃいけない。原理は学ぶべきですが、これをどうやって現代化する事を考えなくてはいけない。そこは意識しておきたいと思うんです。江戸の素晴らしさを再評価して、それをもう一度現代化して欲しい。ただ、戻るという事ではないなと思います。実は、私も大の江戸派なんですけどね。
中村: 本多さん、栄養バランスの事は伺いましたけれども、他にありますか?
本多: 現代に江戸の人の食の知恵を活かすってことはどういう部分かなって、まとめてみますと、こういうことになるのかなと思います。
 一つは「身土不二」です。自分の体と自分の立っている土地、つまり自然環境と不可分に生きている人間はいないので、その土地で、旬に出来た物を食べるのが一番体に良い事です。運ぶ距離が短い事は、ビタミンの損失率が少ないですし、エネルギーの無駄遣いにも繋がっています。これが地産地消という言葉の元になるのかなという気がします。環境にとっても自分にとっても優しい食べ方は、身土不二を大切にするって事じゃないかと思います。
江戸時代の食事のスタイルには「一汁三菜」があります。主食があって、お野菜を色々加工して作る野菜料理が二つあって、主菜が一つ。これは百万石の大名の食事の基本だったようですけれども、先ほどご紹介した食事バランスガイドにぴったりじゃないかと感じます。今は死語になりつつ常備菜は、生活の中に手間を省いて栄養のバランスを整える料理になりますが、特徴は砂糖と醤油が効いていて味が濃い。熱しやすく冷めやすい江戸っ子の性格の背景には、実は塩分の摂り過ぎがあり、保存の知恵が裏目に出てしまっていたようです。ですから、昔と違う常備菜の作り方をすると、生活習慣病を防ぐためのコツの一つなのかなという気がします。
それから永山先生の話の中に、町人長屋でトイレを済ました後に手を洗わずにおにぎりを作って、薄い菌を体に入れて強い菌に勝つというお話がございましたけれども、今、アレルギーの人がすごく増えていて、免疫力がインフルエンザ問題のキーワードになっています。除菌し過ぎるというのがどうやら免疫に悪い影響を与えているんじゃないかというふうに言われています。畳の生活のお話もありましたけれども、布団を敷くのとベッドの暮らしを10年くらいの追跡した調査で、畳に卓袱台、座布団の暮らしには「よっこらしょ」と言いながら立ち居振る舞いをしなくてはいけないので骨粗鬆症になりにくいという統計もあるんです。
昔の生活から、私達に中に理想的な生活形態になるものを上手に取り入れたいものだなというふうに思います。
中村: これまでいろいろ学習をしてまいりました。
時間が参りましたので本日の「大人の食育」学習会はこれで終了いたします。
長時間お付き合い頂き有難うございました。

最後に、会場との活発な質疑応答があり盛会裏に終了しました。


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